チェンの独り言

定期的に刈上がるオタクの長い独り言

とある人間の独り言

 

最後にブログを書いたのは梅雨が始まる頃。

 

気づいた頃には、梅雨も明けて

朝早い時間からジリジリと太陽が照るような

本格的に暑い夏が始まってしまっている。

 

時間が過ぎるのは本当にあっという間だな...と

しみじみ思っている...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とある人間の独り言。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしは、どんな人間なのだろう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな事を、

あることがきっかけで、最近よく考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

そのきっかけというのも、マシュマロで送られた

 

 

 

『いい人ぶっていて無理』

 

 

 

という言葉。

 

正直、読んだ瞬間はショックもなければ

辛くも、悲しくもなかった。

 

ただ、『いい人ぶっている』という言葉が

全然自分の中に、スッと入ってこなかった。

 

いい人ぶっているつもりもなければ、

虚偽の気持ちをツイートしているつもりもない。

だからこそ、頭には『?』が浮かび、

しっくりとこなかった。

 

 

 

周りの人や長い付き合いのある友人は

 

『気にしなくていい』

『そんな心ない言葉かける人がどうかしている』

 

と声を掛けてくれたが、

わたしの中で、どうしても引っかかってしまって

如何にもこうにもスッキリとしなかった....。

 

 

 

 

 

 

 

 

『いい人ぶっている』

 

 

そう送られてきたという事は、

わたしのツイートを見ている誰かの目には

『いい人ぶっている』ように見えているという事。

 

 

裏を返せば、誰かの目には

わたしのポジティブなツイートや発言が

虚偽の内容に見えるほど

どこかでよくない見え方をしていた

という事ではないか...

『いい人ぶっている』と思われる姿の自分は

本当に素直な自分なのか....

 

そう、考えるようになった。

 

 

 

 

 

自分なりに自分の言動や、ツイート

それらを発する上での心情を分析して理解しようと

意識をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

その結果、見えてきた事は

 

 

『良い姿も悪い姿も、結局どの姿も自分である』

 

 

という事。

 

 

 

頭の中で物事を面白おかしく捉えて表現する部分も

感情のままに表現する部分も

時には腐って考えが至らない部分も

より良い言葉を使って表現しようとする部分も

誰かに優しい言葉をかけようと意識する部分も

 

 

 

全て嘘偽りなく自分の素直な感情から出ているものに変わりはなかった。

 

 

 

綺麗な表現や優しい言葉掛けを心掛けているが

人とふざけ合い、ノリツッコミをする上で

表現が崩れ、言葉崩れるのも、

そのままの自分であって

綺麗な言葉を並べるだけの姿が自分ではない。

 

かといって、常に言葉や表現を崩して

ノリだけで人間関係を構築している訳でもない。

 

また、自分という人間に波があって、

負の感情に陥ってしまうことも、

人として腐ってしまうこともある。

 

 

 

気を楽にして、仲の良いと思える相手に

崩れた表現の言葉を投げ掛けることや、

おちゃらけてツイートをする事も楽しくて好きだし、

 

その反面、綺麗な表現や綺麗な言葉を使って

自分の感情を消化する事も、

自分の腐ってしまっている部分を吐き出す事も

自分にとって大切な行為であって、有意義なものだと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前ブログでも書いたように、

私は私の事が好きではない。

見た目も性格も、

正直胸を張って好きとは言えない。

 

 

それでも自分がどうしたら少しでもマシに思えるか

嫌いなりに、好きではないなりに

どうしたら少しでも肯定的に思えるかを

常に模索しながら生活している。

 

 

だからこそ私は、

自分を認めて幸せを感じる事が難しい。

自分を認めて満足感を得る事が難しい。

 

 

 

ただ、生きていて全く幸せや満足感を

感じない訳ではない。

 

 

 

最近気づいた、自分が幸せや満足感を感じる瞬間。

 

 

 

 

 

 

それは、他者への声掛けや言動が

自分にも還元される瞬間。

 

 

 

 

 

日常において、

後輩や周りの職員に向けての良い言葉掛けや、

相手を気遣い、察知し、先回りして行動できた時。

自分の行動が相手にとって有意義なものになり、

そこから何か新しいものが生まれたり、

相手にとっての利益へと変わった時。

 

 

幸せを感じ、満足感が得られている気がする。

 

 

Twitterにおいても、

誰かに優しい言葉掛けをしたり、

誰かに対して労う言葉をかけた時。

誰かの悩みや相談に対して真剣に悩み、考え、

自分なりに想いを伝える時。

誰かの幸せを願い、言葉を並べる時。

 

発している自分が何故か慰められているような、

自分への言葉掛けのように感じる事が多い。

 

ここ最近、フォロワーさんが増えて

人の目が増えたことによって、

以前より、自分に出来る良い言葉や表現を

心掛けるようになってから

尚更強く、そう感じるようになった気がする。

 

 

 

 

 

つまり私は、自分が他者へかける言葉や

他者の事を考えて起こす行動が

自然と自分に還元されて、

幸福感や満足感に繋がっている事が多いのではないかと、最近になってやっと気が付いた。

 

 

 

 

 

 

これを簡単にまとめてしまえば

 

『自己満足』

 

なのかもしれない。

 

 

 

 

それでも、良い言葉掛けや表現を心がける事や

相手にとって良い行動を起こそうと努力する事は

悪いことではないと思うし、

結果として、自分に良い影響を与えているのだから、

今までの自分の姿や

自分の腐ってしまっている部分と比較されて

『いい人ぶっている』と思われても

どうってことない。

 

そう思った。

 

 

 

 

 

おちゃらけている部分も、そうではない部分も。

嫌いだと思う姿や言動も、そうではない部分も。

いい人ではない部分も、いい人である部分も。

間違いなく全て自分。

 

 

 

 

自分の中に重なり合って存在する

沢山の自分の姿は全て余す事なく自分だ。

 

 

 

 

自分の中には腐ってしまっている部分や

人として至らない部分は沢山ある。

 

 

自分の事を好きだと胸を張って言えないのと同様に

自分を構成する全ての部分が『いい人』であるとは

思ってもいないし、どれだけ努力をしても、頭から爪先まで『いい人』になることはとても難しい事かもしれない。

 

 

 

だからといって、

至らない部分だけを指摘されて、評価され、

今の前向きな自分の姿と比較されるくらいなら

そんな相手と関係を持つ事は御免だ。

 

 

 

 

それならば、

片手に収まるくらいの人数で構わない。

むしろ1人、2人でいい。

自分の『いい人』である部分も

『腐っている』部分も

ひっくるめて1人の人間として付き合ってくれる

人との関係を大切にしていきたい。

 

 

現に、ダメダメな私と大喧嘩したって

今でも仲良くしてくれている友人や、

過去に、腐りに腐って人間関係が面倒になり

勝手に疎遠になろうとした身勝手な私を見放さず、

『落ち着いたら戻っておいで』

と迎え入れてくれた友人がいる。

 

今回だって、

私はそんなに気にも留めていなかった

マシュマロを見て

『見てて私が腹立つ!!!!!』と

真剣に怒ってくれた友人がいる。

 

そんな人たちを大切にしたい。

 

 

 

 

私がどんな人間であるか、

今後どんな人間へと変わっていくかなんて

当の本人である、私ですら未だにわからない。

 

ただ、少しでも良い自分になれるよう

少しでも自分を好きになれるよう

誇れるよう

 

努力し続けて、強く生きていきたいと思う。

 

 

 

 

 

深夜に半分目を瞑りながら

書き殴った独り言。

 

 

これを読んだ人にどう思われるか、

どう受け止められるかは知る由もないけれど

 

 

もし、あのマシュマロを投げた人が

これを読んでいるならば、

 

私にとって、大切な人が周りに沢山いるんだと

気付かせてくれた事

 

自分という人について考える機会をくれた事

 

感謝します。

 

 

 

 

以上。独り言でした。

 

 

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